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LIVE ROUND ABOUT JOURNAL

土曜日はLIVE ROUND ABOUT JOURNALへ。
藤村龍至建築設計事務所の藤村龍至さんや、建築ジャーナルの山崎泰寛さんが中心になって活動されているイベント。
数時間に渡り、10組程度の建築家のレクチャーを行ない、
その内容をその日、その時に編集し、最後にフリーペーパーを発行するという企画。
これはなんと、レクチャーのメモをサボっていてもみなさん大丈夫ですよ
という凄まじくやさしいイベントなのです。


さらに詳しい内容については、友人のブログportrait in somethingに頼ります。


最後の全体討議は非常に面白かった。
議論が白熱したのは、
建築についてのレクチャーにおいて「私的な物語」世界だけを作品の根拠や説明として語る事に対する違和感を長谷川さんが述べられた事に始まった。(portrait in somethingより抜粋)


「恣意的」「主体的」に決定した事項を、
「論理的」「客観的」に説明したほうがいい。
そうしないことは、もったいない。
そうすれば、もっとよくなる。

「論理的」「客観的」に説明してもいいのではないか?
そのままでは、もったいない。
もっとよくなる方法を探っていない。
サボっていると。
何をサボってるんだろうか。
それは、「建築」というのは「学問」なのだからでしょうか、
なんなんでしょうか。
「学問」としての責任みたいなものなんでしょうか。

建築を考えるときには、
「まずイメージがあって、スタディの断片を集約させていく方法」
「小さな気づきを、何度も何度も繰り返し修正を加えていくことですことでかたちに定着させる方法」
などが考えられるわけですが、
中山さんのスケッチは前者、模型で死ぬほどスタディというのは後者なのか。

そのような「スタディ」によって決定したもの伝え方。

昨年に「プロセス」を大量の模型によって見せていた
藤村さんが議論に加わっていたらもっとおもしろかったんだろう。
(藤村さんは編集作業のため議論には加わらず)

結局は、
「建築」をどのような手法で作り、
「建築」をどのようにプレゼンするか?
というシンプルな議論
この議論によって結論みたいなものが出たわけではないですが、

学生でも建築家でもサラリーマンでも
それらがずば抜けて上手い人が優秀で、
成績や評価も高く
少なくともこの日のレクチャラーは
その「上手い」人たちが集まっているわけで、
「自分らしさ」を築いてきた人なわけである。

そんな人たちが、こんな議論で白熱してしまうと
それはもうMrマリックのネタバラシ番組みたいなものだー

非常にたのしい話でした。

何を書いてるのかだんだん分からなくなってきました。
自身のプレゼン下手くそさを反省するばかり。


概要

ゲスト・レクチャラー(1月19日):大西麻貴+百田有希/伊庭野大輔+藤井亮介/武藤圭太郎/中央アーキ/長谷川豪/吉村英孝/松川昌平/田中浩也/永山祐子/中山英之/南後由和(モデレーター)

ゲスト・レクチャラー(1月26日):釜萢誠司+針谷將史/g86/伊藤暁/柄沢祐輔/藤村龍至/平田晃久/南後由和/中村拓志/吉村靖孝/ドミニク・チェン

-7 Comments

says...""
建築をはじめとした芸術は、主体的、恣意的であってほしいと思う。
作品に作者のエゴをぶちまけてほしい。

論理的や客観的に議論するのは鑑賞者がすべきで、それが芸術鑑賞の醍醐味なのでは、と思う。
2008.01.23 17:26 | URL | #- [edit]
S to U says...""
コメントありがとうございます。
ごもっともだと思います。

主体的、恣意的であって良いんだと私も思っています。
議論の中で、作る上では「主体的」「恣意的」であってはいけないということを言っている人は誰もいませんでした。

ただ、伝える手段として、時には、「主体的」なものを「客観的」に伝える方法も良いんじゃないかという話だったんだと思います。
2008.01.23 20:04 | URL | #- [edit]
TNa says...""
芸術と建築はしかし注意深く峻別する必要があると僕は思う。建築家が芸術を作るべきだ、建築が芸術たるべきだ、なんぞはだれも言ったことがない。建築にも芸術的特質があるというだけで、ある点では音楽や絵画と同じ層で話すことも可能なだけ。「もったいない」「説明するべき」なんてことは、エゴの捏造でしかないと思う。そのように建築を芸術で捉える人に「だれに説明するの?」と聞けば、「施主に」とか「社会に」とか言うつもりなのだろうか?しかし、それは芸術の仕事ではないことは明らかだ。それなら、まだエゴをぶちまけたほうが良いと思う。   僕としては、建築は説明なんかせず、ただ佇んでいれば良いと思う。そこにすでに芸術が胎動してると思うし。長っ!!ごめんて(笑)
2008.01.23 20:32 | URL | #- [edit]
S to U says...""
流石。
いいこといいますね。TNaくん。
「建築の芸術的特質」によって
「説明するべき」はエゴの捏造。
最初にコメントいただいたみたいに、
論理的や客観的に議論するのは鑑賞者がすべきで、それが芸術鑑賞の醍醐味となる。
のだろう。

「建築」難しいっす。
2008.01.24 01:16 | URL | #JalddpaA [edit]
TNa says..."うーん"
芸術鑑賞が論理的側面があることは理解できますが、それが「醍醐味」ではないんかなぁ。すくなくとも僕は(笑)制作者の意図をも越えた多面性こそが醍醐味なんかなぁ。もちろんそこに論理的理解は包含されると思うけど、それが全てではない事も明らかやし。芸術を「理解した!」と言うことは深層を求める事の放棄だとも思う。「理解した」は、むしろ科学の仕事で、「正確さ」に関わると思う。芸術は「真実」に関わって欲しいと思う。。まぁまた飲も!!
2008.01.24 03:24 | URL | #- [edit]
moka says..."ちょっと参加"
人は理由に感動しないからね、
腑に落ちることはあっても。

ただ建築は使う人あってのもので、設計者のエゴとかは・・・論外じゃない?
「恣意的」「主体的」な設計は、「論理的」にも「客観的」にも説明できないで。
建築においては、直感からのトップダウンと、地道なスタディやヒアリングのボトムアップは不可分かと。
いずれにせよ、最近の雑誌読んでると、SANNAなんかを曲解した設計者と施主が狭い系で回ってる気がして吐き気がします。
おおさかさみしいよ。
建築の話すんのkdしかおらんし。
2008.01.25 01:06 | URL | #bCX/9bio [edit]
S to U says...""
>TNa君、moka君
これはもう飲みましょう。
飲むしかない。kdも呼びましょう。

>TNa君
芸術(全てのとは言いませんが)は多くを語らずに、妄想の余地を残しているというのがいいんでしょうね。
飲みましょう。

>moka君
参加ありがとございます(笑)

私がちょっと思うのは、「理由」(理由のみで感動はそんなにないやろけど)で感動する場合もあると思うし、
設計者のエゴ(エゴを自分勝手と訳すとあれですが、設計者の気持ちというか、誰になんと言われようがこれはやりたーい事とすると)はあっていいと思います。
てか、当然、クライアントや利用者を考えた上でのエゴです。エコです。ネコです。

「恣意的」「主体的」な設計は、「論理的」にも「客観的」にも説明できないというのは同じ意見です。
私の稚拙な文章のせいだと思いますが、当日の討論のときにも 、
「論理的」にも「客観的」にも説明しろという話ではなく、
してもいいんじゃないか、そうでなくても「物語的」に決めたのを「物語的な説明」で終わるのではなく、
もう少し他の説明の仕方ってどんなんだろ?
みたいな話でした。
飲みましょう。
2008.01.28 16:46 | URL | #HfMzn2gY [edit]

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